有限体上の線形代数を探訪する ~ 直交補空間編 ~

前回の記事で有限体上の線形空間の定義の妥当性などを確認した。本稿ではその続きとして直交補空間について考えてみる。

なお、本稿で扱う線形空間は特に断らない限り有限次元であるとする。

ベクトルの直交性

直交補空間とは、平たく言えばある部分空間に属する全てのベクトルと直交するようなベクトル全体の集合から成るような部分空間である。そのため、直交補空間を定義するためには、まずベクトルが直交するとはどういうことかを定義しなければならない。

ベクトルが直交するというのは、内積が定められている計量線形空間であれば内積が0であることで定義される。では、有限体上の線形空間に対して内積を定義することはできるだろうか?

線形空間というのは次元さえ同じなら同型なので、最も基本的な線形空間である \mathbb{F}_q^nに絞って考えてもバチは当たらないだろう。以前の記事でも述べたように、この空間には通常の意味での内積が定義できない。そのため、普通に考えるとベクトルの直交という概念は定義されないように思える。

双線形形式から定まる直交性

「というわけで、有限体上の線形空間には直交補空間という概念は存在しないということですね。めでたしめでたし。」としても良いのだが、どうやらここにはもう少し面白い話がありそうなことが分かった。

確かに内積を定義することはできなかったが、内積と似たような性質を持つ双線形形式を用意し、それを用いて直交性を定めるというアプローチがあるらしい。このアプローチによる直交補空間の定義をWikipedia[2]より引用する。

直交補空間(双線形形式を用いた場合)
 F上のベクトル空間 Vが双線型形式 Bを持つとする。 B(u,v) = 0が成り立つとき、 Bに関して u vに左直交(left-orthogonal)および v uに右直交(right-orthogonal)であると定義する。 Vの部分集合 Wに対して、その左直交補空間(left orthogonal complement) W^{\bot } を、
 \displaystyle{
W^{\bot }=\{x\in V:B(x,y)=0\ ({}^{\forall }y\in W)\}
}
で定義する。同様に、右直交補空間(right orthogonal complement)も定義される。

 \mathbb{F}_q^nにおいて通常の内積のような(成分同士の積の総和を取る)演算は、内積の公理は満たさないが双線形形式にはなっている。そのため、このアプローチによりベクトルの直交性を定め、一般的な直交補空間とでも言うべきものを定義することができる。

一般的な直交補空間の性質

前述のように直交補空間を定義することはできたわけだが、相変わらず (1, 1) \in \mathbb{F}_2^2同士の内積は0になるような体たらくなので、果たして数学的に意義のあるものと言えるのだろうか?それを考えるために、このように定義した直交補空間の性質について見ていこう。

WIkipedia[2]から一般的な直交補空間が持つ性質を引用する。

  • 直交補空間は、 Vの部分空間である;
  •  X \subseteq Y ならば  X^{\bot} \supseteq Y^{\bot} が成立する;
  •  Vの(あるいは Bの)根基 V^{\bot}は、任意の直交補空間の部分空間である;
  •  W^{\bot\bot} \supseteq Wが成立する;
  •  Bが非退化かつ Vが有限次元ならば、 \mathrm{dim}\ W + \mathrm{dim}\ W^{\bot} = \mathrm{dim}\ Vが成立する。

ただし、 Bは双線形形式である。

ここで、 Vの(あるいは Bの)根基とは、双線形形式 Bを用いて直交性を定めたときに、 Vの任意のベクトルと直交するようなベクトルの集合のことである[3]。根基が自明であることと双線形形式が非退化であること(これについては後述)は同値である[3]。 \mathbb{F}_q^nのベクトルに対する内積もどきは(これも後述するが)非退化であるため、有限体上の線形空間の根基は自明である。

また、 Bが非退化であるとは、全ての {\bf y} \in Vに対して B({\bf x}, {\bf y}) = 0ならば、 {\bf x} = {\bf 0}であることを言う[4]。 \mathbb{F}_q^nのベクトルに対する内積もどきは非退化になることを以下に示す。

まず、ある {\bf u} \in \mathbb{F}_q^n, {\bf u} \ne {\bf 0}が存在し、全ての {\bf x} \in \mathbb{F}_q^nに対して B({\bf u}, {\bf x}) = 0が成立すると仮定する。このとき、 {\bf u}の成分のうちいずれかは0ではない。これを第 i成分とすると、第 i成分が1、それ以外が0というベクトル {\bf e}_iとの内積は0にはならない。これは仮定に反するので、 \mathbb{F}_q^nは非退化である。

このことから、 W \subseteq \mathbb{F}_q^nに対して \mathrm{dim}\ W + \mathrm{dim}\ W^{\bot} = \mathrm{dim} \mathbb{F}_q^nが成立すると言える。これについてはブログ[5]にも別の証明がある。

4点目について、 \mathbb{F}_q^nの場合は W^{\bot\bot} = Wが成立する。これは W^{\bot\bot} \supseteq Wであること、および \mathrm{dim}\ W^{\bot\bot} = n - \mathrm{dim}\ W^{\bot} = \mathrm{dim}\ Wから分かる[6]。

通常の直交補空間との違い

複素数体実数体上の線形空間における通常の直交補空間の場合、 V W W^{\bot}との直和であるが、 \mathbb{F}_q^nでは必ずしもそうはならない。例えば \mathbb{F}_2^2について W = \left\{(0, 0), (1, 1) \right\}という部分空間を考えると、 W = W^{\bot}という奇妙な結果になる。

まとめ

本稿では有限体上の線形空間における直交補空間について調べた。双線形形式から定義される直交補空間は複素数体実数体における直交補空間と全く同じというわけにはいかないものの、意外とちゃんとした性質を持っているようだった。どこが違うかをはっきり意識しておけば役立つ場面もあるかもしれない。